初代校長 吉川昇先生(1886〜1973, 校長在任:1941〜1961)年のご令孫にあたる秋山哲様(元毎日新聞社常務取締役)が横浜市からご来校され、吉川先生が1941年8月から1973年3月まで32年間に渡って書き続けられた日記の原本をご寄贈頂きました。学校で大切に保管させて頂きたいと思います。この日記を編集したものは2010年に出版され、槻友会(本校同窓会)のWebsiteから購入することができます。写真に示したのは終戦の日からの3日分の1945年8月15日〜17日の部分です。大変な犠牲をもたらした戦争を始めたことの愚かさを先生は厳しく指摘しておられます。戦後75年経た今も胸に迫るものがあります。秋山氏の判読による8月17日の記述内容を下記に紹介します。(※ ○印は判読できない文字)
17日(金)晴。遂に科学の勝負であった。不真面目なる愚物が我が科学の身のほどを知らず、根拠なき侮りを以て事を始め、最後の最後に至るまで覚めず、ここに到らしめた。勝負は始めより分かっていたのだ。幾多の忠烈に対し何の申訳あるか。而して幾多の忠烈如何ほどの奉公も唯甲斐なき忠誠であったのであった。この責任者未だ御代に名のり出でず。これ等の腐輩また今後の国○を組むものたらんこと、うたがいあるべからず。先ずこれを処置し、始めて純化せられし国となり、一億真に一心、この難に克つ策樹つべきなり。